治療院ストーリー
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地元の接骨院の先生の影響を強く受けた。私は小さな時からケガが多かった。
最初に捻挫したのは3歳のときで、階段をお尻を使って一段一段降りていたことを今でも覚えている。
小学校の頃は帰りがけに石蹴りをしながら帰って、ジャンプした際に捻挫することもあった(笑)
小学生のとき
サッカー・ソフトボール・バスケットボール・陸上・駅伝・縄跳びなど様々なスポーツを行っていた。
自他ともに認めるくらい運動神経は良かったと思う。
その為に捻挫・腰痛・膝痛などなど小学生にしては色々な怪我を経験していた。
それ故、地元の接骨院の先生には小学校一年生から大変お世話になった。
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中学生のとき
バスケットボール部に入部した。
そこでも腰痛や足関節捻挫が多かった。
先生の見よう見まねをしてテーピングを真似したり、色々なケガ予防の方法やリハビリを教わるようになった。
その頃からである、接骨院の先生を見ていて「こんな仕事をしてみたい」と思い始めた。
そんな話をしていた時である、先生にアメリカにはトレーナーの資格があることを聞いた。
その時、アスレティックトレーナーという職業があることを知った。
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高校生のとき
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将来スポーツに関わる仕事をしたいと考えていたので体育科のある埼玉栄高校を選んだ。
高校でも中学から続けているバスケットボール部に入部した。
高校に入ってもケガとの戦いで、特に足関節の捻挫や腰痛に悩まされた。
そんな時の強い見方が地元接骨院の先生だった。
部活をやっていると、早くても家に着くのは22時頃だった。
足関節の捻挫をして接骨院の先生に電話をすると、遅い時間(診療時間外)でも診てくれた。
いやな顔一つせず、ニコニコ顔でリハビリ・応急処置・治療をしてくれた。
部活で全身全霊がいっぱいいっぱいの私を救ってくれるような仏の笑顔だった。
あの笑顔は今でも忘れない。
リハビリとテーピング接骨院の先生は、怪我をした時、体力を落とさない方法・再受傷をしない方法・テーピングの仕方などを教えてくれた。
先生が教えてくれたことは今もトレーナーとして役立っている。
高校時代、いつの間にかチームメイトのテーピングを巻いたり、リハビリの方法を教えたりするようになっていた。
ある友人にテーピングを巻いているとき「おざ(あだ名)こういう仕事したら」と言われた。
単純な私はこの一言でますます、アスレティックトレーナーになることを強く思うようになった。
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大学生のとき
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やはりスポーツに携わる仕事をしたいと思い体育大学に進学する。
ここでもバスケットボール部に入部する。
大学に進学した時は、「大学期間中に英語を学び、お金を貯めて卒業後にアメリカに留学する」と決めていた。
無知だった私は、「体育大学の部活=トレーナー=栄養士」なんて希望を持ち入学したがそんなもの一切なかった。
少し失望した。
バスケ部で一年間プレーして思ったこと・・・
私の実力はここでは通じないと感じ始めた。
スポーツでの初めての挫折だった。
私はバスケ部を辞めることを決意した。
それから・・・
気持ちが途切れてしまい、何をしたいか分からなくなっていった。
私の周りには教員を目指している友人が多く、単純な私はいつの間にか私も教員になろうと思っていた。
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モンゴルで決断
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大学2年生の夏モンゴルに2ヶ月行く機会があった。
私の母には中学以来の親友がいて、その親友の息子さん(私の12歳上)がモンゴルの研究者であった。
最初の一ヶ月はゴビ砂漠をグルグルまわった。
人工衛星が見えるくらい澄んだ満点の星空の下、銀マットと寝袋で寝た。
途中牧民さんのゲル(移動式住居)に泊めてもらったりもした。
その他にもテント生活などをしながら実践的キャンプだった。
後半一ヶ月は、ツアーの手伝いをした(ツアーに参加していた今の奥さんと知り合った)。
そんなある日何もない大草原でボーっとしている時に思った・・・
僕の本当にやりたいのはトレーナーだ。
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学生トレーナー
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日本に戻りトレーナーの勉強を本格的に開始した。
色々な縁があり大学のラグビー部で学生トレーナーとして活動させてもらうことになった。
3年生の終わり頃である、その時に関わっていた大学ラグビー部の友人の紹介で現在トレーナーの仕事をさせてもらっている正智深谷高校(旧 埼工大深谷) に携わるようになった。
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はりとの出会い
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あるチームに研修で行った時のことだった。
そのトレーナーさんが鍼灸をやっているところ見させてもらった。
そこで、ハリの魅力に強く引かれた。
単純な私は「鍼灸治療ってすごいな」と自分にも鍼灸をやってみたいと思うようになる。
そこで、大学の近くにある鍼灸接骨院でアルバイトをさせてもらうようになる。
アルバイトをしているとますます鍼灸に対する興味が強くなっていった。
そこの院長先生は32歳で開業した先生だった。
単純な私は「僕も32歳で開業しよう」と思うようになった。
大学でトレーナーの勉強をしているとアメリカに渡らなくても「日本でも十分トレーナーの勉強が出来る」ことを知るようになった。
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鍼灸専門学校~
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大学卒業後、鍼灸(はりきゅう)の専門学校である花田学園 日本鍼灸理療専門学校に進学し3年後の国家試験で無事に合格した。
鍼師・灸師・あん摩マッサージ指圧師となった。
さらに同校の研修課程に行き日本体育協会公認アスレティックトレーナーの資格も取得することが出来た。
母校である仙台大学で第一号のアスレティックトレーナー資格取得者となった。
その後は、正智深谷高校でトレーナー活動をさせてもらいながら色々な治療院を転々とした。
週3日は高校でトレーナー活動を行い、週4日は治療院で仕事をする日々を過ごしていった。
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開業
32歳で漠然と開業しようと考えていた私はある人のとの出会いでその考えが変わった。
その方とのお話の中で「完璧に準備して起業する人などいない。」
「完璧に準備したら起業出来るなら誰でもしているよ。」
そういわれると、単純な私は「20代で開業していいのかな」と思いはじめた。
開業をする時、新しいことを始めるとき、人はリスクを考えてしまうと思う。
しかし、時代は流れるのだし、すごいスピードで世の中の動きは変化し進化している。
それならば、いつ始めてもリスクは一緒だと思うようになっていった。
そして、尊敬する色々な方との出会いのお蔭様で 2008年2月7日まと治療院をオープンした。
セミナー講師
まず、2010年2月21日よりアドリビ“治療家のためのトレーナー学習”自主開催セミナー。
全国の治療院の院長先生、治療家を対象としたセミナーをスタートさせました。
治療業界活性のために自分が治療家アスレティックトレーナーとして培ってきたノウハウを、全国の治療家からアスリート、学生アスリートへ伝えるミッションでした。
次に、自主開催セミナーはプライオンテーピング協会に生まれ変わり継続してきました。
プライオンテーピング協会とは、業界活性と共にトップアスリート、メダリスト用に独自で開発した新素材伸縮テープであるプライオンテープを普及していきアスリートのパフォーマンスアップやけが予防に取り組むための協会です。
プライオンテープとは、アスリート用に開発された、縦横斜め自在伸縮するテープです。
そして、育成年代のためのオンラインプログラムである、トップアスリートコンディショニング TOPを設立。
Jr.アスリートのためのプログラムで、トップアスリートが実践する科学的コンディショニングを自宅でもマスターできるプログラムを開発。
カラダの現状把握をすることで、育成年代のアスリートにはなくてはならない項目の一つである部分に着目。
カラダの現状把握するために正しい理解を深めることで、育成年代アスリートのケガ予防、パフォーマンスアップ、育成年代のアスリートが自分を見つめ、生涯の健康にも活かすことができるオンラインプログラムを、全国のJr.アスリートに展開し実施します。
そのほかの執筆や外部から依頼されたセミナー講師 でも活躍
移転
2008年2月7日与野駅西口でオープンしたまと治療院。
2016年11月この場所を地主さんの意向で建て直す計画があることが浮上。
店舗の契約更新が出来ないことになってしまいました。
与野駅近郊でテナントを探したものの見つからず、子どものころから遊び慣れ親しんだ与野駅エリアから離れることになりました。
ヤマト運輸さんに荷物を出しに行ったとき、運命的に見つかったのが新都心駅、北与野駅エリアの新店舗でした。
2017年2月1日より新店舗で診療スタート
心機一転、今まで以上に親切丁寧な最幸の治療を心がけていきます。
皆様よろしくお願いいたします。
トレーナー活動
大学生時代から関わらせてもらってきた、正智深谷高校(旧埼工大深谷)ラグビー部。
2000年から2016年までアスレティックトレーナーとして携わることになる。
その間、日本一 4回、準優勝1回、3位4回を全国大会では経験させてもらった。
2013年から3年間は東都大学リーグに所属する立正大学野球部で治療スタッフとして携わる。
2020年より正智深谷高校バスケットボール部とアスレティックトレーナー契約。
2020年、2012年、ウィンターカップベスト8を経験させてもらい、現在も活動継続中です。
バスケットボールのコーチ
2020年からGeraldoBallersヘラルドボーラーズU15(アンダー15)のヘッドコーチになる。
週4回コーチとして、中学生の選手達と日々チャレンジしています。
現在、埼玉県リーグ2部に所属しています。